歴史に一本の流れはない。ましてやあるべき姿が先にあって皆を導くものではない。マルクスが歴史の必然を言ったのは、単なる予測であり、期待値であり、彼の希望であったものである。
歴史を学ぶには、今自分の知っていることをいったんカッコに入れて、自分の判断力の無力さを自覚した上で、自分を過去の時間に放り込んで体験的に考察しない限り、真実に近づくことは出来ない。未来を予測することを出来る力は生じない。
それこそシャーロック・ホームズの言う「後ろ向きに推理すること」と同じである。単純に前向きばかりで人生は解決できるものではない。そこで大切なのは「どうしてある出来事は起きて、ある出来事は起きる可能性がありながら起きなかったのか?」を推理することである。その中でしか体験的理解は生じない。
それを能力的に可能にするのは、文学・映画の力が必要であり、人の想像力はそれらから生じていく。文学も映画も観る時には主人公になったつもりで読み込んでいく。その主人公の疑似体験こそ、自己を客観視できる準備行為である。そのプロセスを経ながら生きる目的を考えて悩まなくては、人間は大人化とはなりえないし、神の存在、神の意味もおよそ理解することは出来っこない。
今や日本は「公共に対する信認」は生じていない。生じようともしていない。それを育てることなくして、国の独立は保てない。今回の中央政府にはそれを期待しているのであるが…。
地方自治体は中央政府に対して強い独立性を持って、文化・映画を自らも手がけ、そしてその成果物を皆で楽しみ、観賞した後でミーティングなりフリートーキングをしてみよう。そうしたら、周りの人達を「同胞」と感じることができ、その人たちのためだったら「身体を切ってもいい」と思えるような、そういう手触りの温かい共同体が立ち上がる切っ掛けが出来るのではないか
令和6年8月24日 廣田 稔