人間は時間的存在であると言われるが、その意味を自ら考察する必要がある。
時間はいまを確知する事が出来ない、とらえられるものは、過去でなく未来へ果てしなく続くであろうという想いだけである。
勿論未来はどうなっていくのか、誰にもわからない。人生に目的もない。目的がないから不安である。しかし、それは人間が自由であることを意味する。それらのことは人間が人間であることの本質である。故に人間は時間的存在であるといわれるのである。
ユダヤ教では「偶像をつくってはならない」といわれるが何故であろうか?神や人間を偶像にすることによって、時間は止まる。そして作った人、それを観る人は、自分でさも神や人間を理解している様な気持ちになって、未来に向かって努力することを怠ってしまう。そうなると人は今の自分の考え、経験則の枠を超えられず、人間が時間的存在であることを忘れ時間の本来的未知性の大切をも考慮することがなくなり、成長を停止し、自我の縮小に陥ってしまう。
悪くなれば家族の排除、自裁の及んでしまう。
内田樹氏は断言する。
「自我というのは他者とのかかわりの中で、環境の変化を変数として取り込みつつ、その都度解体しては再構築されるある種の「流れのよどみ」のようなものである」そして「生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である」と。
若者よ、人生に目的が無くても、未来がどうなるかわからないことが事実であるなら、とにかく70歳を超えるまで、ダラダラでもゆっくりでも、必死でも、生きて行こう。
「共生」することが「愛する」ことの原基的な形態であることがわかるまで。
令和2年11月29日
五代友厚映画製作委員会会長 廣田 稔