三浦春馬は目的という言葉を介して、本当は人間には生命自体に所与の目的は存在していないのであるか、私たちに「この『日本』という国民国家システムを適切に管理運営し、より暮らしやすい場にするために、自分は何をすればいいのか、自分の裁量と努力でなんとかできる範囲でできることのベストは何か。」を考えるように呼び掛けている
後半の大阪商法会議所で三浦は多くの人から罵声を浴びせられる。おそらく彼らは自分のことを成熟したリアリストと思っているに違いない。そうでないとあんなに大きい声で人を批判することはできない。リアリストの市民的未成熟は、彼が「欲望や支配欲や卑屈や弱さ」は集合的性格でありうるが「できるだけフェアで住みやすい統活システムをめざす意思」が集合的に共有されることは「ありえない」と信じている点に際立つ。
彼らは人間が醜悪で卑劣な動機から行動することは信じるが何かしら崇高で非利己的な目的のために行動することは信じない。(街場憂国論 内田樹P194~)
三浦は「人間が非利己的で崇高な目的をめざして行動するときに、もっともそのパフォーマンスを高める」という人間性についての「確信」を持った上で「俺について来い」と叫んでくれている。
自分の未熟さを感じて涙が出る。
人間は自己利益のためにはあまり真剣にならない。
令和3年1月30日
廣田 稔